2020年2月9日 星期日

[沖繩]外國人演講大會:想活得不被「國家」束縛(2020.02.10)

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 講了一個不討好任何人的主題,想必是台派罵左統,左統和小粉紅罵台獨,觀眾覺得太偏激,評審覺得太負面,異文化交流要正面一點。包括我自己,我只能很平淡地處理它,不然我可能連念完它都有困難。「把沖繩還來」那個紀錄片我真的是看兩次哭兩次都哭到爆。之前邊野古抗爭現場唱那首歌看過紀錄片我真的是唱不出口,就算是改成「還給沖繩」還是唱不出口。總不可能唱國歌和國旗歌抵抗中國侵略嘛。要也唱個晚安台灣。
 
 還是有沖繩朋友聽到哭,有很多人鼓勵,真心感謝大家。希望沖繩人可以感受到我永遠願意謙卑學習你們的歷史,希望台灣留學生可以在北京政府有形到無形的壓力之下獲得一點安慰。如果有些日本人覺得太激進那我也沒辦法,我知道你們很喜歡理性中立,但這就是台灣人的日常,和一些沖繩人的日常。說的方式千百種,不一定每次都能做得很好,但期許自己直到最後都能嘗試跟大家溝通:活在一個相對富饒而且國籍穩定的祖國並不是天經地義的。
 
 來沖繩之前蘇碩斌老師無意間聊到過,說希望我們這代不用重蹈覆轍為了台獨跟日本右派結盟,聽說吳叡人也這樣講過。演講比賽沒幾個人聽,可是世界上必須要有人表達我不合作,不說話會被當啞巴,要像昌一阿伯一樣,當紅人繞了一圈,最終還是一個普通的阿伯。

 
=======原稿=======
(不負責任照翻文字沒有順過)
  
想活得不被「國家」束縛地
 
 有一個經驗讓我難以忘懷。大學的課堂上老師放「把沖繩還來」這個紀錄片給我們看。「把沖繩還來」是從沖繩的回歸運動到現在不斷被傳唱的一首歌。這個紀錄片很平鋪直敘的描述了沖繩回歸之後基地問題也沒能解決,沖繩縣民的安心安全的生活無法被保障的矛盾,並不是特別賺人熱淚的內容。但我看完以後卻哭到停不下來,只因為沖繩的經驗跟台灣的經驗太像了。
 
 紀錄片裡有一個橋段是知花昌一先生把全國體育大會上強制升起的太陽旗燒掉,他認為接受政府和主辦單位對升太陽旗的「強制」,相當於又犯了一次戰前日本國民同意日本發動戰爭的錯。這個行為乍看很激進,但對台灣人的我而言並不奇怪,甚至可說很能理解。其中隱含了無法以「反日」一詞概括的沖繩人的內心糾結。
 
 以前台灣曾在1895年到戰爭結束的50年間成為日本的殖民地。1940年代當時戰爭將至,祖父母一代被迫接受皇民化教育,宣示對天皇忠誠,並被迫作為日本人參加戰爭。戰後我們回歸了「中華民國」,剛開始大家很開心,但很快言論自由就被剝奪。國民黨開始了獨裁政權,用共產主義者、反政府等等藉口把很多人抓起來殺掉。
 
 大家有看過這個國旗嗎(中華民國國旗),大家是不是想著「啊,是台灣的國旗」呢?
 這是中華民國的國旗,對我來說象徵獨裁,並不能代表台灣人。1987年將近40年的獨裁政權結束之後,我們變成得用這個國旗了(五星旗)。這是中華人民共和國的國旗。揮中華民國的國旗,就會被當成台獨。
 
 大家知道韓國的偶像團體TWICE嗎?成員有9人,其中有一個台灣人。她叫子瑜。他在韓國上節目的時候因為舉了中華民國的國旗,被中國施壓後被迫道歉。像這樣台灣人到哪都被迫說自己是中國人。日本、中華民國、中華人民共和國的國旗都不能代表我們,我沒有認同的國旗。
 
 語言也是。戰前的沖繩有方言牌。沖繩戰的時候,說方言的沖繩人曾經被當成間諜殺害。台灣在戰後,國民黨也在學校用過方言牌。日文不用說,台語等方言也被禁止。共通的語言於是變成中文。我的第一語言是中文,但我跟88歲的奶奶說話時說台語。會說中文固然是件好事,但台語也很重要。台灣也有人說客家話,也有原住民的語言。所有的語言都一樣重要。中華民國的「國語」是中文,但我的奶奶不會說中文,他只會說台語和日語。那他算得上哪裡的國民呢?對台灣人來說,只有「母語」,沒有「國語」。
 
 同一個國家的人就該是同一個種族,說一樣的語言嗎?我認為不是這樣。這難道不是為了統一國民而製造出來的謊言嗎?我們並不是只要隸屬於一個國家就必然會幸福。正因為如此,台灣和沖繩才經歷了這麼長時間的認同糾結。作為一個公民我有責任讓我的國家制度更完善,但我不認為我有義務無條件愛我的國家。愛國有時候會造成歧視,讓我們想要排除跟自己不同族群、說不同語言的人,甚至造成國民內化對自己的歧視,這種國家不愛也罷。
 
 但我認為還有希望。只要我們不被作為國民的身份所束縛,我們還是可以透過對話來傳達自己期待的社會。
 我在韓國的濟州島參加過和平營。那時候剛好有機會跟南京大屠殺紀念館的館長聊台灣的現況。她認為台灣應該跟中國統一,但聊完後她說:「只是同姓就硬說是一家人,確實有點過分」,可說是試著傾聽了台灣的歷史和台灣人的想法。不是政治立場不同就必然無法對話,這只是掌權者拒絕跟人民對話而說的藉口而已。
 
 我們期待一個大家可以擁有多元認同的社會,一個接受各種多樣性的社會,一個可以不論出身一起為了自由和人權努力的社會。
 
 試著對話並透過對話,我們可以一起做這個夢。
 
 
 
=======(以下日文原文照登)=======
 
外国人弁論大会感想:「国家」に縛られずに生きていきたい
 

 おそらく大多数の人の口に合わないスピーチをしてしまった。急進的な独立派には親中派、統一派と中国の公式立場には独立派、一部の日本人には過激派、審査の方々には異文化交流の良さが見えないし(西川長夫もすでに90年代に異文化交流にある国民国家の前提を批判したし笑)政治的でネガティブに見えたかもしれない。私自身でさえかなり客観視しないと読み上げることすらできない重い内容だった。だって「沖縄を返せ」を二回みて二回ともめちゃ泣いたし笑。
 それでも泣いてくれた人たち、いいこと言ってくれた人たち、本当にありがとうございました。私は一生謙虚に沖縄の歴史を学び続ける決意を見せたら、毎日のように中国政府に抑圧される台湾人の慰めになれたらなと。一部の日本人に過激だなこいつって思われるかもしれないけどそれは仕方がない。なぜならそれは台湾の人たち、昔の沖縄の人たちにとっての日常だから。豊かで揺るぎない主権を持っている「国家」にたまたま生まれたから闘わなくて済む、そんな当たり前の珍しさ、いつか伝わるといいなと思って、伝え続けたいと思う。
 独立の道を歩む時に前の世代の過ちを繰り返して右翼と連帯しないように何人かの先生に言われた。数人にしか伝わらないかもしれないが、昌一さんみたいに、「過激」なこと全部やった後も、また普通のおじいちゃんでいることを、一生見習いたいと思う。
 練習に付き合ってくれた先生の方々本当にありがとうございました。
 
=======原稿=======
 
 私には忘れられない日があります。OTVが放送した「沖縄を返せ」という番組を観た日です。この番組は、日本に復帰しても基地問題が解決されず、安心安全に生活できない沖縄県民の葛藤を、淡々と描写していました。ことさらに感情を掻き立てるような内容ではありません。でも、私は、止まらないほど涙を流しました。沖縄がしてきた経験と台湾がしてきた経験が重なり合って見えてきたからです。
  
 番組には知花昌一さんが国体で強制掲揚された日の丸を燃やしたというエピソードが出てきました。その背後にあるのは、軍国主義の象徴としての日の丸の「強制」を容認したら、戦争を容認した戦前の過ちを繰り返すのではないか、という考えです。一見過激な行為に見えますが、台湾出身の私にとっては、それほど不思議なことではなく、むしろ、よく理解できました。そこには「反日」という言葉で片付けられない、沖縄の人たちの葛藤が見えました。
 
  かつて台湾は、日本の植民地でした。1940年代当時、祖父母の世代は皇民化教育を受けさせられました。天皇に忠誠を誓い、日本人として戦争に参加させられたのです。戦争が終わると、「中華民国」に復帰できました。しばらくは喜んでいたのですが、再び言論の自由を奪われました。国民党による独裁が始まったのです。共産主義者、反政府といった口実で、たくさんの人が捕まって、殺されました。
 皆さん、この国旗を見たことがありますか。「あ、台湾の国旗だ」と思いましたか?
 これは、中華民国の国旗なんです。私にとっては、独裁の象徴です。台湾人を代表するものではありません。40年近くの独裁が終わると、今度は、この国旗を掲げなければならなくなりました。中華人民共和国の国旗です。こちらの国旗を振ったら独立派と見なされるようになったのです。
 皆さんは、韓国のアイドルグループのTWICEをご存知ですか。メンバーは9人で、その中に一人だけ台湾人がいます。ツウィさんです。韓国のテレビに出演したとき、彼女は、中華民国の国旗を持っていました。すると、中国から圧力がかかって、謝罪させられました。台湾人は、このように至る所で、自分のことを中国人だと言わされるのです。日本、中華民国、中華人民共和国、どの国旗も私たちの国を象徴するものではありません。私には国旗はないのです。
 
 言葉もそうです。戦前の沖縄には方言札がありました。沖縄戦の時、しまくとぅばを話す沖縄の人々はスパイとして殺されたこともあったそうです。台湾でも、戦後、国民党が学校で方言札を使っていました。日本語はもちろん、台湾語など方言も話してはいけないと言われたのです。共通言語は中国語に変わりました。私にとっても第一言語は中国語ですが、88歳のおばあちゃんと話すときは台湾語を使います。また、台湾には、客家語を使う家族もいます。先住民の言語もあります。中華民国にとっての「母国語」は「中国語」だとされていますが、私のおばあちゃんは、中国語を話しません。台湾語と日本語を話します。おばあちゃんはどこの「国民」になるのでしょうか?台湾人にとって、「母語」はありますが、「母国語」はないのです。
 
 同じ国の人なら、必ず同じルーツを持ち、同じ言葉を話すわけではないと思います。これは、国民を統合するために作られた嘘だと思います。どこかの国に属すれば、かならず幸せになれるとは限りません。だからこそ、沖縄も台湾も長い間、アイデンティティの葛藤を経験してきたのです。一市民として国の制度をよくする責任はあります。しかし、無条件に国を愛するという義務はないと思います。国を愛することが、時には、差別につながることもあります。自分とはルーツや言葉が違う人を排除することになります。差別を自分の中に内面化することにつながるのであれば、私はそんな国を愛することはできません。
 
 私は希望を持っています。国民としてのアイデンティティに縛られなければ、私たちの願いは、対話によって伝わるのではないでしょうか。
 私は、韓国のチェジュ島でピースキャンプに参加したことがあります。そのとき、台湾がおかれている状況について、中国南京大虐殺記念館の館長さんと、話し合う機会がありました。彼女は、「中国と台湾を統一すべきだ」という考えの持ち主です。でも、私と話す中で、「名字が同じだから無理やり家族にする、それは確かにひどい」と言ってくれました。台湾の歴史と台湾人の気持ちを理解してくれたのです。政治的な立場が違うからといって、対話が不可能なわけではないのです。
 私たちは、誰もが柔軟なアイデンティティを持てる社会、ありとあらゆる多様性を受け入れる社会、出身に関係なく自由と人権のために闘える社会を望んでいます。
 対話をすれば、対話によって、こんな社会を作ることができるのです。
 
 ご静聴、ありがとうございました。
 

2019年10月12日 星期六

[沖繩]Flower Demo:如何跟「男性」結盟(2019.10.11)

 
 參加了沖繩縣廳(縣政府)前廣場舉辦的第三次Flower Demo*。主辦人鼓勵大家發言的同時,也不忘強調大家都不說話的沈默時間「silence stanging」的重要性,而現場確實可以感受到大家不是被沈默,而是自己感受到了一些事而沈默。
 
 在自發的沈默時間裡,有年輕的男生拿了麥克風。
「我雖然不曾作為加害者,也不曾受害,但曾經聽身邊的人說過這些事,我真的很生氣,不知道」他說得很激動。

 那個當下我從他的發言當中感受到某種「攻擊性」。

 當然,我希望所有人一起思考性別的事,尤其認為結構中佔居上位的異性戀男性參與其中,同時思考性別規範對他們的壓迫,社會才有可能改變;我同意年輕人有性別意識是很棒的事(其實我知道對方是高中生);我願意正面接受他話中真實的憤怒和正義感,也絲毫不覺得他需要表現出溫和理性。如果他可以意識到自己跟當事人的距離和所踩的位置並及時反應當然更好,但來到現場、思考後,把自己想法說出來,絕對不是一件壞事。
 
 然而一反上述至今為止累積的思考方式,我很單純直觀的,對此感受到一種負面情緒。當下我馬上想:我絕對不要拿起麥克風說話。我的身體感受到那裡是讓倖存者述說經驗,進而產生連帶感的地方,而不是來宣揚理念,證明自己正確的地方,而我沒有自信,我「作為男性」理性發言時能夠「不帶攻擊性」。
  
 身為非異性戀我可能可以說出比異性戀「不帶攻擊性」的意見吧,即便如此我還是會比受害女性更「具攻擊性」。這並不是單純用性別身分來分類,而是考慮各種經驗和位置所得出來的結果:一方面我因為不把女性當成性對象自認不會成為狹義性暴力的直接加害者,也就不曾仔細思考慾望跟與女性連帶的緊張關係,一方面廣義上來說因為性別氣質而被霸凌可以說是廣義的性別暴力的一環,但遭受性暴力的沈重和日常生活的不安,都不是作為順性別男性活在社會上的我,可以完全體會的。
 
 女性不只在遭受性暴力的當下,而是在日常生活中也可能隨時感受到潛在的恐懼,女性的意見比起男性容易被否定所以經常被沈默,這些雖是女性主義根據女性的經驗整理出來的「理論」,也應該可以還原到每個人日常生活片段的感受。為什麼聚餐的時候自動由男性負責開場和結束致詞(指日本),為什麼小組討論的時候明明女生人數比較多卻都是男生在講話,身為一個帶著同志和女性主義者認同的人,生活中不少時刻會意識到這些事,然而半夜一個人走在路上卻不感到害怕、以為有平等的發言機會而侃侃而談,這些沒被意識到的狀況絕對是遠多於有意識的狀況。這是結構創造的身體,可以試著改變,卻也真實存在。這樣的「男性」要如何能跟「女性」結盟、產生連帶呢?
 
*Flower Demo是聲援性暴力受害者的活動,每月11日舉辦,為期一年,從東京車站開始擴及日本各地,參加者會帶著花去會場以表達跟受害者站在一起。以沖繩的場次來說,主持和發言主要強調很多人跟妳一樣、不是妳的錯、說出來尋求協助支援和爭取權益並不可恥。
 
=====原文照登=====

フラワーデモ:「男」とどう連帯するのか
 
今回県庁前の三回目で初めて行ってきた。性被害を安心して語れる主旨が掲げられる中、主催者は発言を促しつつも、誰も話さない沈黙の時間「サイレントスタンディング」の重要性も説いた。沈黙をさせられるのではなく、何かを感じたから自ら沈黙するということなんだ、と沈黙する時間を味わいながら納得した。
 
そんな自主的な沈黙のなかで、若い男の子がマイクをとった。
「僕は加害したこともないし、被害も受けたことないが、こういう話を周りの人から聞いたことがあって…もう腹立つんすよ。意味がわからん。。。」
と、熱い思いを語った場面だった。
 
しかし自分はなんとなくそこで「攻撃性」を感じてしまった。
 
もちろん、ジェンダーのことを皆で考えてほしい、むしろいわゆる優位に立つヘテロ男性(と今の構造下で彼らにとって辛い部分)を含む皆で考えないと変わらないし、若者が問題意識を持って思考することはいいことだし、また、その言葉にできない怒り自体やそこに潜む正義感を真剣に受け止めたいし、別に柔らかい表現を皆に求めているわけでもない。多少当事者との距離などポジションナリティを意識し、関わり方もダイナミックに修正してもらえればもっといいが、現場に来て、考えて、そして自分の考えを言葉にすることは、決して悪いことではなかった。
 
しかし、上述今まで積んできた思考とは別で、単純に、そして直感的に、マイナスな気持ちがその場で湧いた。そこですぐ思ったのは、自分は絶対に、マイクをとって喋らないことだった。ここは当事者が体験を語ることによって連帯する場であり、自分の理念主張で連帯する場ではない、ということを身体で感じたのだ。そして自分は「男として」「攻撃性のない」話ができる自信がない。
 
ヘテロ男性でない自分は、ヘテロ男性より「攻撃性の低い」話はできるだろう。それでも被害の経験を語った女性たちよりは「攻撃性がある」と思わざるを得ない。それは単純にカテゴリーで分けるのではなく、女性が性交渉の対象外ということで(極めて狭義的にいう)性暴力の直接加害者にならない、女々しいからいじめられた経験があるという意味では性被害を受けたと言えるかもしれないが、だからといって女性として性暴力を受けたことの重さはいつまでも完全に理解できないし、その日常生活の不安も完全に体験していない、という様々な経験と立ち位置から判断するものである。
女性は被害を受けた時だけではなくて常に性暴力の不安にさらされる、女性は男性よりも意見を否定される傾向があるから沈黙をさせられる、これらフェミニズムが女性の経験に基づいてまとめた「理論」でもあれば、一人ひとりが日常生活で感じうる身体のことでもあり、そこに還元できると思う。なんで飲み会のとき自動的に男性が開け閉め役をやるのか、なんでグループディスカッションの時女性の人数が多いのに男性ばかり喋っているのか、セクシャルマイノリティーでフェミニストとしてのアイデンティティを持つ自分は時々感じる。しかし無意識に自分が夜中の街を不安なく歩いたり、真剣で平等に聞いてくれると思って自分の意見主張を、自信を持って喋ったりしたほうが圧倒的に多い。それはこの社会構造が作った身体であり、変わりうるものでもあれば、ある程度実在するものである。このなかで、女性に対する性暴力に男性はどうやって連帯するのだろうか。

2019年7月14日 星期日

[沖繩]沖繩「研討會」與我不自在的身體(2019.7.14)

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 昨天去參加國場幸太郎(*1)著作再版紀念研討會,會場比想像中大,初估大概有150人,放眼望去都是老人,一些北杯們穿著琉球民族自決權踢(如圖),偶爾聽到爽處就突然拍手,甚至大聲喊出自己的意見。現場幾乎沒有大致同齡或以下的年輕人(我環顧了超多次再次重申我沒有誇飾),唯一一位有點眼熟的小哥,我後來想起來他是用琉球語演戲的劇團「比嘉座」的新銳演員。
 
 常常跟身邊親友討論為什麼沖繩的研討會都沒有年輕人。所上老師開玩笑說,沖繩的研討會是給大家連帶的地方,知識性的討論通常進行不太順利,雖然可以理解但有時候蠻煩的。昨天的場合就讓我再次深深覺得(沒錯之前就有過很多次),沖繩的研討會就不是為我這種人的身體,不是為年輕人,當然更不是為外國人,或者更明白的說,是為了沖繩本地中老年男性的身體。
 
 第一位講者長元朝浩奉命簡介全島土地鬥爭在幹嘛,他在資料上列出很多很細的點,但他跟大家聊了很多天和前情提要,最後完全(真的是完全沒有誇飾)來不及講到全島土地鬥爭就下台了。
 
 第二位是超重量級講者新川明,有一點琉獨討論基礎的人一定聽過,他可以說是反回歸論最重要的,60年代一片,跟國場幸太郎頗有交情,兩頁的資料有兩百倍的份量可以講,低沈的嗓音時常不對準麥克風突然消音,比預計的時間多講了好幾十分鐘才終於多次催促的主辦方,我真的是沒聽多久就開始放空神遊
 
 短暫中場休息之後第三位講者中氣十足,接在新川明後面我本來想好欸我終於可以認真聽了,但他是一邊回顧自己的思想軌跡一邊討論跟國場幸太郎的相關點,夾雜了大量的時代梗跟政治梗,大家大笑的點我也只能尷尬陪笑。
 
 最後一個上台的是沖繩移民的二代Annmaria Shimabuku,現在在紐約大學當助理教授。老師的日文有可愛的美式口音,顯然不是從小跟上一代講,而是後來才學的,她的內容論點清晰,而且有投影片輔助,是整場我唯一抄得了筆記連得上所學的一段。
 
 對我而言這是很辛苦的四個小時,沒有論點的發表不僅意義有限,而且很難跟上。長元朝浩的段落講到土地運動裡其實是混雜著民生問題到思想上的反殖民,我一直隱隱覺得這些二手資料跟概念的堆疊沒有搔到癢處,反而聽島袋老師講很快吸收很有收穫;新川明的段落我很難在腦袋裡把內容連起來,或從裡面挖出寶藏(如果仔細聽裡面其實有很多寶藏,我都只聽到片段),一方面可能是我對國場幸太郎的認識有限,但一方面其實也是因為我不是活過那個年代的人。就這兩點,除去認真把檔案做完的研究者,恐怕沖繩本地的年輕人也有層層難關要突破,遑論是日文口音太重就聽不懂的廢物外國人。

 
 另外一個很有趣的身體感差異,是新川明講話的時候我一直努力督促自己不要打瞌睡,但環雇四周北杯們其實不太介意直接閉目養神,結果在意的只有我自己。北杯們安靜的聽,想睡就睡,跟旁邊志同道合(琉球認同強烈)的北杯們有一搭沒一搭的聊天,偶爾才大聲嚷嚷,其中不乏阿姨們,但性別比有些懸殊,中老年女性的身體跟北杯們佔有的空間其實並不相同,她們以看似無性別,實則以沖繩男性運動者為標準的身體活動著。
 
 換個角度想,其實是我們在特定的訓練裡習慣了某一種「狹義的研討會」,真的重要的背景才條列、重要的是論點、對主題沒有一定的熟悉程度就閉嘴不要提問浪費大家時間,才無法熟悉「他們的」參加方式,只能說這對我來說很像是去田野,而不是去聽研討會的內容(是小抱怨但絕對不是批評)。

 
 然而就像身邊反基地的同學親友提過無數次的,這個氛圍其實就是邊野古反基地運動的氛圍,絕對跟沖繩年輕人無法進入反基地運動有很大很大的關係。
 
(*1)國場幸太郎是沖繩50年代全島土地鬥爭的推手,對當時的政治經濟狀況進行分析,並對美軍抗爭指向回歸日本抱持疑問,後來因為路線問題跟瀨長龜次郎吵了架之後搬去日本生活。

2018年8月8日 星期三

[沖繩]縣長走那天。(2018.8.7)

(臉書移動) https://www.cna.com.tw/news/aopl/201808080347.aspx
〔日沖繩縣知事翁長雄志癌逝 享壽67歲 | 國際 | 中央社 CNA〕
 
心情很複雜。
今天是指導教授所有學生都參加的論文討論會,我們剛報告完,同學突然拿手機新聞標題給我看,說他意識朦朧,晚餐休息前就說他走了。親朋好友們都在群組訊息裡哭,說路人都在單軌上哭。不知道為什麼我也很想哭,但同學們正在給我們精彩意見也不是時候。
 
四年前我剛好就在沖繩看他當選。
當然那時候我還沒去過邊野古,連基地問題的ㄐ都不知道,只知道有各種危險,有人抗爭。沒有人要跟我討論或給我一些建議應該看什麼書,沒人告訴我地方報一直報反對多大程度是縣民真正的聲音,路邊標語說中國贊助抗爭便當錢是真的還假的,只能自己看報紙慢慢拼。民調說縣民投票的時候優先考慮基地立場的人過半數,翁長縣長贏了那麼多票,民意雖然大約一半一半,但反基地的人還是比較多吧等等。
 
沖繩的政治人物最會的就是背叛選民了,97年名護針對邊野古搬遷案舉行市民投票,票數相近但反對派過半,結果本來表態反對的市長比嘉鐵也向政府表達有條件接受,然後炫風辭職下台;14年初本來表示反對的前縣長仲井真弘多臨時變革,向政府表態接受,翁長縣長年底選贏他,後來一連串手段包括前縣長的「表態接受」不合法、撤回「接受」,沖繩縣跟中央各種打官司也是這樣來的。
 
他曾經是沖繩政治光譜上的保守派,曾經幫仲井真助選,但他到死他都沒有背叛他的選民,要反對邊野古,就用盡作為縣長的所有手段,始終反對,至死方休。
 
但故事並不只是民意一面倒卻被無視。兩千年代不管是縣長或名護市長其實都接受邊野古案,選舉一直是一半一半,所謂沖繩保守派、接受基地派,覺得「既然現狀難以改變,那就從中獲得最大利益吧」,其實是戰後美軍統治到現在相對而來的,跟某些很會操作估狗演算法但邏輯很差的右派、硬要來沖繩推一些不會當選的候選人的宗教政黨極右派真的不是同一件事,所謂革新跟傳說中六零年代的激進老左派也不是同一件事。
 
我其實有點懂
大家之所以哭的心情,後來一個人偷哭了。朱立倫或蘇貞昌之類哪天死了我大概也不會覺得跟我太有關。邊野古反對派來說哭是理所當然的吧,當我不支持一個政策但全國沒有人理我,全國人民都覺得,為了大家的安全偶爾死幾個人忍耐一下啦都拿那麼多錢了,去靜坐抗議被抬走被抹黑,一個人到極限了,但我投了一票終於有用,至少在縣的層級不惜跟中央打官司也要幫我發聲,翁長縣長就是具體希望的象徵。保守派說,雖然立場不同但畢竟幫縣民做了這麼多事,我只能說辛苦了。
 
死掉的人一如既往今後肯定會被各種政治利用,不管拿來繼續反邊野古,或拿來幸災樂禍誰叫你要跟國家做你作得來的。但縣民的眼淚跟糾結都是真心的,而且是心酸的。保守派縣長也是大家選出來的,但全縣團結一心沒有半個人支持基地才算的話,那沖繩戰犧牲那麼多平民被拿來拖延本土決戰當祭品,戰後因為農地都被搶去蓋基地了大家只好去基地裡工作,回歸後日本政府各種為了讓基地繼續存在另外全部重訂特別法,然後各種發錢給接受派,這些要怎麼算,真的是基地很有利益嗎?

 
大浦灣八月就要填了,這是沖繩,這是縣長能出來做為反基地象徵的島,也是縣長做到死也沒有用的小島。

2018年6月17日 星期日

[沖繩]用琉球島弧述說的戰爭經驗:母語被充分尊重的兩小時(2018.6.17)

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 「しまくとぅばで語る戦世」(用琉球語述說的戰時)是一個1997年開始的計畫,讓經歷沖繩戰的爺爺奶奶們用琉球語講他們的戰爭經驗。系統性採集沖繩戰的口述史是從60年代開始,但一直以來都是日語訪日語答。

 

 屋嘉比収說,同一個人用日語跟琉球語講一樣的內容,表情,語氣,停頓點都完全不一樣。不只琉球語才是他們的母語,戰場上她們跟家人的對話也都是琉球語,顯然用日語重述的時候,她們必須要為了聽眾翻譯她們當時的所說所想。

 

 影片是剪輯版,印象最深刻的是少數聽得懂的部分幾乎都是戰爭相關的單字,比如「中隊」「戦闘」「斬り込み隊」,也就是這些字在沖繩語裡本來沒有,也沒有被內化,就直接用日文被記下來了。而最有趣的是,每個人的段落都有分前半和後半,中間穿插「日本語字幕なしでご覧ください」(接下來請看無日文字幕),我到大概第三個人才發現前後的內容是不同的,但也沒辦法,聽不懂就是聽不懂。
 


 
 比嘉座是一個用琉球語演出的劇團,跟證言影片放映會搭配演出多年,演員都是年輕人從頭開始學
琉球語到可以上台演戲。他們今天的演出,是關於一個少年逐漸回溯聽到直升機的聲音就發瘋的阿茲海默症爺爺的戰爭經驗。同樣的所有戰時場面我幾乎聽不懂,只能靠動作表情猜,但邊看才突然意識到這樣日語跟沖繩語交錯,而非「翻譯」成日語的演出片段反而貼近真實。
 
 坐在前排的奶奶們總是在跟自己不同的時間點笑出聲或頻頻點頭。她們是真正經歷過戰爭的人(至少坐我前面的奶奶說她經歷過十·十空襲),雖然年輕人的
琉球語跟她們的交談比起來顯然有「日語口音」,但這恐怕是他們的母語難得被尊重的時刻。
 
 我們習慣
琉球語有人幫我們加字幕,習慣所有生活的場面遇到她們仍然用日語,從來沒有人會怪罪我們不用琉球語跟她們溝通。只有在這兩個小時裡,全場以沖繩語為主,不是所有部分都有日語翻譯,而聽不懂的我們只能接受。
 
 我每天講日語不覺得有什麼太大的障礙,很多生活的場面確實也沒什麼動腦組織隨便亂講也會通,可是整天下來還是會累,如果對方聲音太小或有口音必須聚精會神的聽,累的速度就會三級跳。
 
 就算語言本身的差異沒有中文跟日文那麼大,是像中文跟台語一樣好了,對阿嬤(當然還有阿公)們來說,幾十年生活中理所當然不能以自己的母語為主是怎樣的感覺呢?富山一郎強調要從沖繩戰證言中看到被殖民者被動員的身體(而不只是思想上的日本化)讓他們在心裡把自己他者化,語言的影響在今天更被當成理所當然難以察覺,只在這兩個小時被問題化。
 
*補記:剛剛看到說戰時念小學的人已經在家在學校都說標準語了,但大五歲的人在家還說
琉球語。想想可能也有人是我一輩子無法理解的雙母語,但差幾歲經驗就完全不一樣。