2020年2月9日 星期日

[沖繩]外國人演講大會:想活得不被「國家」束縛(2020.02.10)

(臉書移動)
 
 
 講了一個不討好任何人的主題,想必是台派罵左統,左統和小粉紅罵台獨,觀眾覺得太偏激,評審覺得太負面,異文化交流要正面一點。包括我自己,我只能很平淡地處理它,不然我可能連念完它都有困難。「把沖繩還來」那個紀錄片我真的是看兩次哭兩次都哭到爆。之前邊野古抗爭現場唱那首歌看過紀錄片我真的是唱不出口,就算是改成「還給沖繩」還是唱不出口。總不可能唱國歌和國旗歌抵抗中國侵略嘛。要也唱個晚安台灣。
 
 還是有沖繩朋友聽到哭,有很多人鼓勵,真心感謝大家。希望沖繩人可以感受到我永遠願意謙卑學習你們的歷史,希望台灣留學生可以在北京政府有形到無形的壓力之下獲得一點安慰。如果有些日本人覺得太激進那我也沒辦法,我知道你們很喜歡理性中立,但這就是台灣人的日常,和一些沖繩人的日常。說的方式千百種,不一定每次都能做得很好,但期許自己直到最後都能嘗試跟大家溝通:活在一個相對富饒而且國籍穩定的祖國並不是天經地義的。
 
 來沖繩之前蘇碩斌老師無意間聊到過,說希望我們這代不用重蹈覆轍為了台獨跟日本右派結盟,聽說吳叡人也這樣講過。演講比賽沒幾個人聽,可是世界上必須要有人表達我不合作,不說話會被當啞巴,要像昌一阿伯一樣,當紅人繞了一圈,最終還是一個普通的阿伯。

 
=======原稿=======
(不負責任照翻文字沒有順過)
  
想活得不被「國家」束縛地
 
 有一個經驗讓我難以忘懷。大學的課堂上老師放「把沖繩還來」這個紀錄片給我們看。「把沖繩還來」是從沖繩的回歸運動到現在不斷被傳唱的一首歌。這個紀錄片很平鋪直敘的描述了沖繩回歸之後基地問題也沒能解決,沖繩縣民的安心安全的生活無法被保障的矛盾,並不是特別賺人熱淚的內容。但我看完以後卻哭到停不下來,只因為沖繩的經驗跟台灣的經驗太像了。
 
 紀錄片裡有一個橋段是知花昌一先生把全國體育大會上強制升起的太陽旗燒掉,他認為接受政府和主辦單位對升太陽旗的「強制」,相當於又犯了一次戰前日本國民同意日本發動戰爭的錯。這個行為乍看很激進,但對台灣人的我而言並不奇怪,甚至可說很能理解。其中隱含了無法以「反日」一詞概括的沖繩人的內心糾結。
 
 以前台灣曾在1895年到戰爭結束的50年間成為日本的殖民地。1940年代當時戰爭將至,祖父母一代被迫接受皇民化教育,宣示對天皇忠誠,並被迫作為日本人參加戰爭。戰後我們回歸了「中華民國」,剛開始大家很開心,但很快言論自由就被剝奪。國民黨開始了獨裁政權,用共產主義者、反政府等等藉口把很多人抓起來殺掉。
 
 大家有看過這個國旗嗎(中華民國國旗),大家是不是想著「啊,是台灣的國旗」呢?
 這是中華民國的國旗,對我來說象徵獨裁,並不能代表台灣人。1987年將近40年的獨裁政權結束之後,我們變成得用這個國旗了(五星旗)。這是中華人民共和國的國旗。揮中華民國的國旗,就會被當成台獨。
 
 大家知道韓國的偶像團體TWICE嗎?成員有9人,其中有一個台灣人。她叫子瑜。他在韓國上節目的時候因為舉了中華民國的國旗,被中國施壓後被迫道歉。像這樣台灣人到哪都被迫說自己是中國人。日本、中華民國、中華人民共和國的國旗都不能代表我們,我沒有認同的國旗。
 
 語言也是。戰前的沖繩有方言牌。沖繩戰的時候,說方言的沖繩人曾經被當成間諜殺害。台灣在戰後,國民黨也在學校用過方言牌。日文不用說,台語等方言也被禁止。共通的語言於是變成中文。我的第一語言是中文,但我跟88歲的奶奶說話時說台語。會說中文固然是件好事,但台語也很重要。台灣也有人說客家話,也有原住民的語言。所有的語言都一樣重要。中華民國的「國語」是中文,但我的奶奶不會說中文,他只會說台語和日語。那他算得上哪裡的國民呢?對台灣人來說,只有「母語」,沒有「國語」。
 
 同一個國家的人就該是同一個種族,說一樣的語言嗎?我認為不是這樣。這難道不是為了統一國民而製造出來的謊言嗎?我們並不是只要隸屬於一個國家就必然會幸福。正因為如此,台灣和沖繩才經歷了這麼長時間的認同糾結。作為一個公民我有責任讓我的國家制度更完善,但我不認為我有義務無條件愛我的國家。愛國有時候會造成歧視,讓我們想要排除跟自己不同族群、說不同語言的人,甚至造成國民內化對自己的歧視,這種國家不愛也罷。
 
 但我認為還有希望。只要我們不被作為國民的身份所束縛,我們還是可以透過對話來傳達自己期待的社會。
 我在韓國的濟州島參加過和平營。那時候剛好有機會跟南京大屠殺紀念館的館長聊台灣的現況。她認為台灣應該跟中國統一,但聊完後她說:「只是同姓就硬說是一家人,確實有點過分」,可說是試著傾聽了台灣的歷史和台灣人的想法。不是政治立場不同就必然無法對話,這只是掌權者拒絕跟人民對話而說的藉口而已。
 
 我們期待一個大家可以擁有多元認同的社會,一個接受各種多樣性的社會,一個可以不論出身一起為了自由和人權努力的社會。
 
 試著對話並透過對話,我們可以一起做這個夢。
 
 
 
=======(以下日文原文照登)=======
 
外国人弁論大会感想:「国家」に縛られずに生きていきたい
 

 おそらく大多数の人の口に合わないスピーチをしてしまった。急進的な独立派には親中派、統一派と中国の公式立場には独立派、一部の日本人には過激派、審査の方々には異文化交流の良さが見えないし(西川長夫もすでに90年代に異文化交流にある国民国家の前提を批判したし笑)政治的でネガティブに見えたかもしれない。私自身でさえかなり客観視しないと読み上げることすらできない重い内容だった。だって「沖縄を返せ」を二回みて二回ともめちゃ泣いたし笑。
 それでも泣いてくれた人たち、いいこと言ってくれた人たち、本当にありがとうございました。私は一生謙虚に沖縄の歴史を学び続ける決意を見せたら、毎日のように中国政府に抑圧される台湾人の慰めになれたらなと。一部の日本人に過激だなこいつって思われるかもしれないけどそれは仕方がない。なぜならそれは台湾の人たち、昔の沖縄の人たちにとっての日常だから。豊かで揺るぎない主権を持っている「国家」にたまたま生まれたから闘わなくて済む、そんな当たり前の珍しさ、いつか伝わるといいなと思って、伝え続けたいと思う。
 独立の道を歩む時に前の世代の過ちを繰り返して右翼と連帯しないように何人かの先生に言われた。数人にしか伝わらないかもしれないが、昌一さんみたいに、「過激」なこと全部やった後も、また普通のおじいちゃんでいることを、一生見習いたいと思う。
 練習に付き合ってくれた先生の方々本当にありがとうございました。
 
=======原稿=======
 
 私には忘れられない日があります。OTVが放送した「沖縄を返せ」という番組を観た日です。この番組は、日本に復帰しても基地問題が解決されず、安心安全に生活できない沖縄県民の葛藤を、淡々と描写していました。ことさらに感情を掻き立てるような内容ではありません。でも、私は、止まらないほど涙を流しました。沖縄がしてきた経験と台湾がしてきた経験が重なり合って見えてきたからです。
  
 番組には知花昌一さんが国体で強制掲揚された日の丸を燃やしたというエピソードが出てきました。その背後にあるのは、軍国主義の象徴としての日の丸の「強制」を容認したら、戦争を容認した戦前の過ちを繰り返すのではないか、という考えです。一見過激な行為に見えますが、台湾出身の私にとっては、それほど不思議なことではなく、むしろ、よく理解できました。そこには「反日」という言葉で片付けられない、沖縄の人たちの葛藤が見えました。
 
  かつて台湾は、日本の植民地でした。1940年代当時、祖父母の世代は皇民化教育を受けさせられました。天皇に忠誠を誓い、日本人として戦争に参加させられたのです。戦争が終わると、「中華民国」に復帰できました。しばらくは喜んでいたのですが、再び言論の自由を奪われました。国民党による独裁が始まったのです。共産主義者、反政府といった口実で、たくさんの人が捕まって、殺されました。
 皆さん、この国旗を見たことがありますか。「あ、台湾の国旗だ」と思いましたか?
 これは、中華民国の国旗なんです。私にとっては、独裁の象徴です。台湾人を代表するものではありません。40年近くの独裁が終わると、今度は、この国旗を掲げなければならなくなりました。中華人民共和国の国旗です。こちらの国旗を振ったら独立派と見なされるようになったのです。
 皆さんは、韓国のアイドルグループのTWICEをご存知ですか。メンバーは9人で、その中に一人だけ台湾人がいます。ツウィさんです。韓国のテレビに出演したとき、彼女は、中華民国の国旗を持っていました。すると、中国から圧力がかかって、謝罪させられました。台湾人は、このように至る所で、自分のことを中国人だと言わされるのです。日本、中華民国、中華人民共和国、どの国旗も私たちの国を象徴するものではありません。私には国旗はないのです。
 
 言葉もそうです。戦前の沖縄には方言札がありました。沖縄戦の時、しまくとぅばを話す沖縄の人々はスパイとして殺されたこともあったそうです。台湾でも、戦後、国民党が学校で方言札を使っていました。日本語はもちろん、台湾語など方言も話してはいけないと言われたのです。共通言語は中国語に変わりました。私にとっても第一言語は中国語ですが、88歳のおばあちゃんと話すときは台湾語を使います。また、台湾には、客家語を使う家族もいます。先住民の言語もあります。中華民国にとっての「母国語」は「中国語」だとされていますが、私のおばあちゃんは、中国語を話しません。台湾語と日本語を話します。おばあちゃんはどこの「国民」になるのでしょうか?台湾人にとって、「母語」はありますが、「母国語」はないのです。
 
 同じ国の人なら、必ず同じルーツを持ち、同じ言葉を話すわけではないと思います。これは、国民を統合するために作られた嘘だと思います。どこかの国に属すれば、かならず幸せになれるとは限りません。だからこそ、沖縄も台湾も長い間、アイデンティティの葛藤を経験してきたのです。一市民として国の制度をよくする責任はあります。しかし、無条件に国を愛するという義務はないと思います。国を愛することが、時には、差別につながることもあります。自分とはルーツや言葉が違う人を排除することになります。差別を自分の中に内面化することにつながるのであれば、私はそんな国を愛することはできません。
 
 私は希望を持っています。国民としてのアイデンティティに縛られなければ、私たちの願いは、対話によって伝わるのではないでしょうか。
 私は、韓国のチェジュ島でピースキャンプに参加したことがあります。そのとき、台湾がおかれている状況について、中国南京大虐殺記念館の館長さんと、話し合う機会がありました。彼女は、「中国と台湾を統一すべきだ」という考えの持ち主です。でも、私と話す中で、「名字が同じだから無理やり家族にする、それは確かにひどい」と言ってくれました。台湾の歴史と台湾人の気持ちを理解してくれたのです。政治的な立場が違うからといって、対話が不可能なわけではないのです。
 私たちは、誰もが柔軟なアイデンティティを持てる社会、ありとあらゆる多様性を受け入れる社会、出身に関係なく自由と人権のために闘える社会を望んでいます。
 対話をすれば、対話によって、こんな社会を作ることができるのです。
 
 ご静聴、ありがとうございました。